山田上ノ山古墳は磯長谷古墳群を構成する古墳の1つとされています。
墳形は円形で、直径32メートル。
かつては「鶯陵(うぐいすのみささぎ)」とも称され、江戸時代には「北山陵」と称されるほどで、『河内名所図会』では『枕草子』に登場する「うぐひすのみささぎ」はこの古墳だと表現されています。
丘陵前には竹内街道が通っていて、日本最古の官道と言われていて、飛鳥と難波を結ぶ官道として整備され、外交、信仰、経済の道として栄えました。
大化改新後に即位した第36代・孝徳天皇は、改新に功績のあった飛鳥時代の豪族「蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)」らを政権に登用し、改新政治を推し進めたとされています。
しかし、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)らと不仲となった天皇は、難波宮で654年(白雉5年)に死去し、大阪磯長陵(おおさかのしながのみささぎ)に葬られたと伝えられています。
陪塚からは「海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)」と言う中国・唐から入って来た鏡が出土したと伝えられています。